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1月12日、母の人生最期の日その3 [2012年12月末、最後の2週間]

期間はかなり経ちましたが、完結するために書き留めます。

医師の所見により亡くなったことを確認。母の身体はすぐに霊安室にすぐに移送されたが、医師が来る前だか来た後だったか、看護婦さんが電極や装置を外す際、母の顔や見える肌の部分もきれいにしてくれたことを記憶している。彼ら本来の仕事でないが、その心遣いには素直に感謝した。

大きな病院には葬式の手配などする人が24時間待機している。病院が連絡するとすぐに担当者がきた。ぶっちゃたけた話、病院側も遺体をいつまでも安置しておきたくないんだろう。一方で葬儀屋の担当者も仕事とは言え大変だと思う。いつビジネスが来るかわからないしいつも黒い服を着ないといけないし。

ただ葬儀を行う側としては、ちょっと前に身内を亡くしたのにすぐに話をされても金銭的に冷静な判断をするのが難しい。デフォルトはこれで、金額はこれだけで済みます、とは言われても後でわかるがそれで終わるわけではない。オプションが沢山有るのだが、向こうもビジネス営業攻勢をかけてくるのが常。私の母は決して大きな葬儀を希望していたとは思わないが、結果的には出席者数の割に立派な葬儀となってしまった。自分の時は生前に契約しておいて、最後にバタバタして身内に迷惑をかけないようにしよう、と心から思ったことを覚えている。

希望の葬儀場が開かずすいぶんと待たされたが、その間母は数日家にいることが出来た。1月13日か14日には東京で雪が降ったかと思う。自宅の庭の外に積もった雪が綺麗だったことを記憶している。

葬儀はいわゆる滞りなく進み、終えることができた。ここ数日ほとんど寝ていなかったが、いまいち眠につけなかった。それでも仕事なのでアメリカに一度戻る手続きをし、航空チケットを手配した。このときデルタ航空にはよくしてもらったことを書き留めておきます。

それと49日の法要にも弾丸で帰国しました。2泊4日だったかな。それでも最後まで見届けることができたのはせめてもの救いだったかと思います。


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1月12日、母の人生最期の日その2 [2012年12月末、最後の2週間]

この記事はかなり経ってから記述しているので、記憶違い
のこともあるかもしれません。ご了承ください。

面会時間をすぎたものの個室では付き添いが可能。今夜は
長くなりそうなので父と相談していったん家に戻りシャワー
だけ浴びることにした。家と病院は車で15分くらいのところ
だったが、帰る途中いきなり父から電話。呼吸が止まった、
すぐに戻ってこい、とのこと。びっくりしてUターンしようと
道をさがしていたら、また電話。呼吸が戻ったので、シャワー
浴びていいよ、とのこと。なんだよ、どっちだよ、と思う。

家に戻って慌ててお風呂をわかし、急いでシャワーを浴びた。
父もおなかをすかしていると思うので、コンビニでおにぎりや
パン、飲み物を買って病院に戻った。

病室に戻ると交代で食事をとった。もちろん病室ではとれない
ので歩いて1分の休憩室で。母を見ると相変わらず浅い呼吸
をしていた。たまに止まったかと思うときもあったが、その後
ふぅーっという感じでふつうの呼吸に戻り、このままいてくれ
たらと思うと、急に浅くて顎で呼吸になったりした。ちなみに
この病院では(それとも母の場合?)酸素マスクをつけたり
しなかったが、個人的な意見としてそれでもよかったと思う。
意識のない状態では痛みもないだろうし、酸素マスクをつけても
摂取できる酸素の量がそれほど変わるとは思えなかったから。

心電図を見ると波形も弱まっているのもわかった。心拍も徐々
に落ちている。呼吸と違い、これは戻ることはなかった。心臓の
動きも弱くなっているのか、装置が心拍数を測定できずいきなり
0を示すことがあったが波形はかろうじて見えていて、また検出
できるほどの心拍があると、低いながらも数値が復活した。ただ
ゆっくりと心臓がその動きを止めようとしてのは心電図の波形を
見ていればよくわかった。

母の顔を見ると少しでも酸素を得ようとがんばって呼吸している
のがわかった。手を握ればまだ暖かい。当たり前だが心臓から
血液が押し出されて血流がある証拠だ。どれだけがんばれる
かなぁとおぼろげに思っていた。最後にちょこっと意識が戻らない
かなぁとも期待した。

ただ最期はあっけなくきた。呼吸がないように思え、あれ心拍も0.
波形を見ると限りなく低い波が1つあるかないかきたと思ったら
あとはぴーんと1直線。ドラマでは何度でもみたようなもの。その後再び
波形が現れることはなかった。自分もCPRやAEDに心得があった
のでその場でやろうと思えばやれたが、母も望んでいなかったし、
担当医もやってもろっ骨を折るだけでしょう、ということだったので
そのままに。母の顔をみたが安らかで、悲しいというよりむしろ
お疲れさま、頑張ったねという言葉が浮かんだのをはっきりと
覚えている。あらためて感謝の言葉を伝えたことは言うまでもない。

誰かを呼ぼうと思ったら、看護婦さんがすぐにかけつけてくれて
担当医を呼んでくれた。自分は病院内にはいたがそこにはいな
かった父や弟を呼びに出かけた。

その3に続く。
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懲りないお知らせ [日常]

いろいろと考えることがあって、ブログを別のドメインで
再開することにしました。今度は時間があるときに気楽
に書いていくつもりです。こっちのサイトは母の記録を
少しずつ書いて予定通り終わりにしますが、気分的な
問題もあって、なかなか筆が進みまないのが正直な
ところです。

もし駄文にお付き合いいただける方は

http://npng2013.blog.so-net.ne.jp/

をごらん下さい。4月12日の母の誕生日から、また始め
ました。いつまでも落ち込んでいられないので。
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1月12日、母の人生最期の日その1 [2012年12月末、最後の2週間]

昼間でかける用事があったので、夕方4時前になって
病院に行くと、すでに母は個室に移されていた。先に来た
親戚が「家族の方はいらっしゃらないですか?」と先生
が探していたことを教えてくれた。自分が着くと、ちょうど
先生と父が話し始めるところだったので、自分も参加した。

結論から言うと、今日か明日が山です、とのこと。
説明として、急にさらに状態が悪くなり、内出血や紫斑
が見られるようになったこと。そして前日より尿が減り
(~100ml)、恐らく腎不全が起き、実際血中のカリウム
濃度が7Eq/Lを超えていた、とのことだった。

ちなみに7を超えるカリウム濃度が心停止を起こしかねない
危険な状況であることは素人でも知ってる。生理学やれば
これが心筋にとってどんなにまずいか分かるし、そうでなく
てもドラマとかで塩化カリウムの静脈注射で殺人、という
シーンはかなりの人が見たことあるはず。ちなみに以下注釈。

カリウム濃度の異常

初期の心電図変化はカリウムが5.5mEq/Lを上回ると生じ,QT間隔の短縮および高くて左右対称性の先鋭的なT波を特徴とする。カリウムが6.5mEq/Lを上回ると,結節性および心室性の不整脈,QRS幅の拡大,PR間隔の延長,P波の消失がみられる。最終的に,QRS波は変形して正弦波パターンとなり,心室細動または収縮不全が起こる。

実は恥ずかしい話、先生の話を途中まで聞いて頭が
真っ白になってしまった。わざわざ自分のためかこれら
の症状を何とか症候群とか説明してくれたけど頭に入らず、
さらに全てをわかっていないのに「わかりました」と答えた
自分がいたから。こんなこと今までなかった。

慌てて個室に入って母に会った。顔がまっ黄色で黄疸
がひどかった。時折普通の呼吸に戻るときもあったが、
ほとんどがいわゆる顎で呼吸していて、苦しそうだった。
意識が戻って会話できるかどうかも、かなり怪しかった。

長くなったのでその2に続く。
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1月11日、容態急変、悪化 [2012年12月末、最後の2週間]

今日病院に行くと今まで以上に顔が黄色くなって
いて、またほとんど話すことが出来なくなってしまった。
熱も出ていたようで、氷枕がしてあった。それでも昨日
同様、リップクリームと保湿クリームを塗ってあげると
「気持ちいい」と言ってくれた。

顔の色を見る限り、癌が細々とつながっていた門脈
を破壊したか、肝臓そのものを食い荒らして肝臓の
機能がほぼ停止してしまったのかもしれない。

袋にたまっている尿を確認すると、心なしか昨日より
少ない気がする。夕方回診で回ってきたスタッフに
尿の量を確認すると「少なくなってきています」と
言われた。ということは腎臓もついにやられてきたか
と思う。担当医と話をするも「肝性脳症がひどくなって
きている感じです」とのこと。触ってみると手足も冷たく
なってきている感じがした。

また自分らが不在のとき尿管を直接通されていたのが
嫌だったのか、無意識でパジャマや下着を脱ぎ、はず
してしまっていた。しかし自分で服を着る余力はない。
それで待合室から帰ってくると下半身裸の母を見て
びっくりし、慌てて看護婦さんに直してもらったこともあった。

帰り際、担当医とまた話しかけられり「そろそろ個室に
移った方がいいかと思います。指定のお見舞い時間
以外でも側にいてあげられますから」と部屋を移ること
を勧められた。

いよいよ終わりが近いことを告げられたも同然で、
帰り道父と話をしていても、どよーんとしていた。
本来なら今日一度アメリカに戻るはずだったが、当然
飛行機をキャンセルし、延長を滞在することにした。
(因みにこの緊急時に対し、デルタ航空は寛大な
判断と処置をしてくれたことを記しておく)
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